Winding Road

手探りで進む曲がりくねった道。その先でしか本当のものとは出会えない……

プレイヤーは誰?

2016年の全日本が終わった。

男女ともに見ていて感じたことをまとめておこうと思う。

GPシリーズから感じていたことなのだが、今回全日本を見て、はっきりと立ち現れて来た疑問(疑念)がある。

それは「現在のフィギュアスケートにおけるプレイヤーとは誰なのか?」ということ。

 

本来リンクの上で演技をする選手がプレイヤーなのだろうが、このシーズンの選手たちを見ていると、どうしてもそう確信することができないのだ。

私の目には

プレイヤーはコーチ。選手はフィギュアスケートというゲームに出てくるキャラクター。

のように映ってしまうのだ。

コーチが出す指令通りに、氷のリンクという画面上を飛んだり、滑ったり、スピンしたりするキャラ、それが選手。多くのアイテムをゲットして、得点を積み重ねることが役割で、ゲームをクリアしていく……。

そのように見えた。

主役はプレイヤーだ。プレイヤーの腕次第でキャラはガンガン得点を稼ぎ、ステージをクリアしていく。キャラは考えない。ひたすら指示されたことを卒なくこなしていく。最初からそうアルゴリズムされている。

これはロシアのメドベ選手に対しても感じていたことだったりする。キスクラにいるコーチがプレイヤーで、メドベという世界最強のキャラを手にして、今猛烈な勢いでフィギュアスケートというゲームをクリアしようとしている。そんな風に見えるのだ。

 

実際、会場で観戦していた人が

「なんだか淡々としていて、コンパクトで、ノーミスなんだけど、会場の温度が一気に上がるようなそういう爆発力にかけていて、こんな静かな最終グループってなんだろう?」

とつぶやいていたが、本当にまるでDSのゲームをのぞき見ているような全日本だったなと思う。

 

もちろん全員が全員そういうわけではない。

選手がプレイヤーだという演技をしている人もいた。

とくに、佳菜子と真央は、まるでプレイヤーというポジションがコーチによって乗っ取られようとしているこの潮流に必死に抵抗するかのような覚悟の演技だった。

 

それこそ、最初から勝ち目のない戦いだったのかもしれない。

それを承知の上で、二人は、一人は難度を落として自分の表現したいことを表現することに徹し、一人は世界最高難度に挑戦すること、チャレンジなくしてアスリートで居続けるなどという矛盾は決して許されないという、選手としての矜持に徹した。

思うに、これは佳菜子と真央だけでなく、彼女らのコーチも同じ想いで、この潮流に抵抗を試みていたのだと思う。

「真央ちゃんらしく」(久美子先生)

「あなたの思う通りに滑りなさい。がんばって」(信夫先生)

真央を送り出す二人の言葉には覚悟がにじみ出ていた。まるで勝ち目のない戦いに愛娘を送り出す両親のようにさえ思えた。二人の子どもを持つ親として、このシーンを目の当たりしたときは本当に心に堪えた。それでも、戦う意味を感じたからこそ、氷上に送り出したのだろう。

今の膝の状況で、追い込みもできていない現状を鑑みれば、3A回避は当然のことだったと思う。実際、2Aに変えていれば、回転不足などの判定そのままでも、SPは65点、FPに至っては、後半へのダメージも少なく、サルコーやコンボも跳べ、130点近くは得ることができた。そうしたら、結果は変わっていたと思う。

本人もコーチもわかっていたに違いない。

回避すれば、結果が変わるということを。

でも、あえて、「あなたの思う通りに滑りなさい」という結論に至ったのは、「最近自分の考えもふっきれてきたようだ」というようなことをコメントしていた信夫先生の「覚悟」も多分に含まれているのだと、私は思う。

これ以上、コーチがプレイヤーになってしまっては、フィギュアはスポーツですらなくなってしまう。

ゲームになってしまったら、すべて終わり。

そうなってはいけない。

12歳から第一線で続けている真央だから実感できる危機感。

残された時間はあとわずかしかないのに、真央は自分のためにその時間を使うのをやめ、フィギュアスケートがスポーツであり続けられるよう、そのレジスタンスに使った……。

残されている時間は本当にわずかなのに。

 

真央のラストダンスとともに、フィギュアスケートは終わるのだろう。

 

ゲームのキャラ相手に感動なんてできない。

だから、淡々と進んでいく。

ノーミスクリアを喜ぶのはプレイヤーだけ。

なんて味気ない試合なんだろうか。

ゲーム世代にはこれがわかりやすくて気持ちがいいのかもしれないが、それではフィギュアはもはやゲームでしかないだろう。

表現力がある…などという評価も笑止千万。

ゲームのキャラなんて設定次第でしょうに。

 

コーチがプレイヤーで、選手はキャラを感じるのはキスクラでの光景でも感じる。

すくっと一人で座っている選手が少なくなった。

コーチと手をつないでいるその姿を愛らしいと思うのか、信頼関係の体現と見るかはその人それぞれの自由だが、私には、飼い主とペットの関係性に見えてならない。十代前半ならまだしも、後半ならば、自分に対する審判は一人で受け止めてほしいと思うのが人の親としての願い。

しかし、そもそもコーチと選手がプレイヤーとキャラの関係性ならば、この光景は得心できる。

 

フィギュアスケートのプレイヤーとは誰ですか?

 

2016年シーズンを見て、このフレーズにたどり着き、現行の採点システムが作り上げたこの危機的状況にほんのわずかな人しか気づいていない現況に、フィギュアスケートの終焉を感じている。

真央は今、何を感じているのだろうか?

絶望していないことを心の底から祈っている。

彼女は何度覚悟を決めなくてはならないのか。

ラストダンスのその瞬間くらいは、穏やかに迎えてほしい、迎えさせてほしいと、思わずにはいられない。

 

真央、あなたの行く道は、いつも、なぜか、winding road だね。

でも、匡子ママがずっとずっと上からあなたの行く末を見守っているから、大丈夫。このまま進んでも大丈夫だよ。